深田 上 免田 岡原 須恵

幻の邪馬台国・熊襲国 (第3話)

3.邪馬台国への道のり 自郡至女王國 萬二千餘里

 このように、なかなか邪馬台国にはたどり着けていないのが現状であるが、この魏志倭人伝には、幾つかのヒントとなることが記述されている。それを紹介しながら更なる検証をつづけよう。

 魏志倭人伝には、このような短い記述箇所がある。それは、図2 の左端に
自郡至女王國 萬二千餘里」とある。
意味は、帯方郡より女王国に至るまでの距離が12000余里、である。狗邪韓国までが7000里、狗邪韓国~対海国(対馬)は1000里、対海国~一支国(壱岐島)まで1000里、一支国~末盧国まで1000里、末盧国~伊都国は500里、伊都国~奴国までは100里、奴国~不弥国は100里とある。従って、狗邪韓国から不弥国までの合計里数は、3700里、よって、帯方郡から不弥国までの合計は10700里である。この値を12000から差し引くと1300里、1里の距離を前述のように、88m~99mとすれば114~128kmとなり、邪馬台国は不弥国から約120km前後の地にあることになる。しかし、この不弥国がどこにあるのか、まだ分かっていない。ところが、卑弥呼の邪馬台国時代より100年も前の西暦57年、後漢王朝(25年ー220年)の初代皇帝 光武帝(こうぶてい)が奴国に贈った金印が博多湾北部の志賀島から出土した。図7がその金印である。

金印   140km
図7.後漢から奴国王に贈られた金印   図8.伊都国から約140kmの地

 そのため、福岡市あたりが奴国であるとされ、異論はない。衆目の一致する奴国や伊都国から邪馬台国までの距離は、糸島市あたりから南へ約140km前後の地点が邪馬台国ということになる。つまり、南は、天草の下島や葦北郡付近、東であれば国東半島あたりとなる。その範囲を図8に示した。ちなみに、邪馬台国畿内説で有力候補地の奈良の纏向遺跡(まきむくいせき)までの陸路距離は東へ約600kmである。

 白杖(はくじょう)の作家として活躍された宮崎 康平(みやざきこうへい)さんは、昭和42年、講談社から「まぼろしの邪馬台国」を出版された。この書で、宮崎さんは、前述のような理由からではないが、長崎県の島原半島付近を邪馬台国の比定地とされている。そこが比定地として適切であるか否かは別として、不自由な視力のもとで、氏の邪馬台国という古代ロマン探索への執念に読者は共感したのだろう。この書が刊行されて以来、邪馬台国ブームの再来があり、いま、本稿に手を焼いている筆者も、当時、この書を読んで邪馬台国の女王
卑弥呼(ひみこ)の虜(とりこ)になってしまった一人である。

4.邪馬台国は弥生時代・九州の弥生時代遺跡

 さて、魏志倭人伝には、各王国の戸数が記述されている。対海国には約千戸、一支国には約3千戸、末盧国には約4千戸、伊都国には約千戸、奴国は2万戸、不彌国は約千戸、投馬国は5万戸、そして邪馬台国には約7万戸とある。これらは戸数であり、1戸の住人は数人いたはずであるから、邪馬台国の人口は数十万人の大集落であったと予想される。あれだけ大きな佐賀県の吉野ケ里遺跡の人口はおよそ5400人、奈良時代の平城京は約10万人と言われているから、邪馬台国は、それよりはるかに大きい規模であったと予想できる。

 そこで、想定できることは、邪馬台(壱)国は水利に恵まれ、作物栽培に適した平野部の地であったであろうということである。九州で最大の平野は筑紫平野(1200平方キロ)であり、福岡平野も合わせると広大である。筑紫平野の西側が佐賀平野であり、有明海に面している。熊本県では、熊本平野や八代平野があり、宮崎県の宮崎平野、鹿児島県の出水・川内平野、大分県では、大分平野や中津平野などがある。邪馬台国九州説に従えば、これらのどこかが邪馬台国であったと考えられる。

 しかし、もう一つ大事なことは、これだけの人口集落であれば、一国ではなく、邪馬台国は複数からなる連合国家ではなかったかと考えられることである。前述したように、帯方郡の使者が常駐した伊都国が、いわばその核都市であったと想定できる。しかし、証拠が発見されなければ、納得を得ることは出来ない。そこで、弥生人の生活の痕跡、栽培・狩猟の痕跡、武器や道具づくりの痕跡が、約1800年を経過した現在でも、何らかの形で残っているはずと考え、以下、九州における弥生時代遺跡の分布を調べた。約1900ヶ所の遺跡を国土地理院の地図に書き込んだものが図9である。

遺跡分布
図9.弥生時代の遺跡分布

 この元資料は、奈良文化財研究所の遺跡データを基にした検索サイト遺跡ウォーカーである。

吉野ヶ里遺跡   原の辻遺跡
吉野ヶ里遺跡(佐賀県神埼市・神崎郡)   原の辻遺跡(壱岐島:壱岐市)
図10.九州の代表的な弥生時代遺跡

 図10は、九州の代表的な弥生時代遺跡遠景である。この他、九州北部の大規模集落遺跡としては、朝倉市の平塚川添遺跡(ひらつかかわぞえいせき)が知られている。いずれも公園化され、弥生時代の居住環境が再現されている。

 さて、図9から明らかなように、いまから約2000年前後の弥生時代の遺跡分布は、佐賀県の唐津付近から福岡市、大分県の大分市から竹田市方面、それと熊本県の玉名市や山鹿市周辺など、弥生遺跡の密集地は、どちらかと言えば熊本以北である。ところが大隅半島の肝属郡や志布志市周辺など、南九州にも弥生時代遺跡の密集地が存在する。これらの事実から、まず、対馬の「対海国」、壱岐島の「一支国」、それに唐津・糸島市周辺の「伊都国」、および、その隣り、福岡周辺の「奴国」の存在は、ほぼ間違いないといえる。しかし、そのほかの魏志倭人伝記載の王国がどこにあたるのか、どう結びつけたらいいのか容易ではない。なぜなら、大分から阿蘇地方、及び大隅半島や志布志あたりの遺跡住人は、佐賀県や福岡県周辺など九州北部の遺跡住人とは同じ民族であり、同時代の渡来人とは断定できないからである。ただ、図9から、九州への渡来人の主要な上陸地は、唐津湾、別府湾、志布志湾あたりの三ヶ所であったことがわかる。松浦半島や唐津湾へは東シナルートや朝鮮ルートで、中国東部や東北部から来た人達であり、大隅半島や志布志湾へは南方ルートで、中国南西部やベトナム方面から来た人達の渡来拠点であったと予想される。

 しかし、別府湾や臼杵湾近傍の遺跡住人は、どこから辿り着いた渡来者だったのだろうか。読者諸氏の多くは、図9では、大分県方面の遺跡が有明海の熊本県側からの拡大していったように見えるかも知れない。実は、弥生時代以前の縄文時代の遺跡分布を調べてみると、やはり最初の寄港・定着地は別府湾あたりであり、そこから内陸へ移住していったことが分かっている。従って、中国大陸や朝鮮半島から北九州に寄港し、急流難所の関門海峡を命懸けで航行して別府湾に辿り着いた人達だとは、筆者は、どうしても思えない。夏期であれば南方からの黒潮海流に乗れば、黒潮流路は臼杵湾近くに達する。このことを考慮すれば、この遺跡住人達も黒潮族だったと考えられる。

<つづく>  
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